能書き垂れ其の一 2008.2

僕はルアーやフライで釣れるのなら何でも釣る釣師です。
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西洋で生まれた釣はこの国、日本で50年近くの歴史を迎えもう他所の国の釣ではなくなってしまったと感じています。

僕がこの釣に出会った30年前そして現在。

多くの人々がこの釣をしているのは素晴らしいこと。しかし肝心のフィールドはどうなっているのだろうか。。

言わせて頂くが釣りのヒントはフィールドにある。
誰が何と言ったとしても、水の中に魚の近くに針を落とさない限り釣りは成立しない。

もう一つに魚を針まで誘き寄せる釣りというのもあるが、効率を考えるのか遊びとして捉えるのかでそこは変わる。

何れにせよ最終的には魚の近くに針(疑似餌)はある筈だ。

釣り場に行くこと無く部屋などで、考え事や物思いに耽る時に、空想や妄想の釣りも重要であるが、それは感動や興奮の余韻であり、言わば釣りの残り滓だ。

しかし、その残り滓を疎かにしてはならぬ。

迷い貫いた先にある次の釣りにはそのプロセスが必要なのである。

それがイメージトレーニングである。

僕の釣りは、緊張感と緊迫感と僅かな一線を貫く鋭い感覚が宿る時のみ、数メートル時には数十メートル先の標的を捉え、次の瞬間に腕、手首、掌、指先からラインを伝わり獲物の力を受けて、それをどんな魚か目で、見て手で触れて己の捕らえた獲物であると心から実感したときのみ、本物の喜びとなる。

つまり釣り始めから、釣り終わりまでの流れがスムーズに流れ、失敗が無いことが最大の喜びだ。

これだけ釣りをしているのにも関わらず、数えるほどしかその経験をしたことは無い。

またその感覚を再び味わいたいから、釣りに向かうのだと僕は思う。

どうしてか?なぜか?その答えは魚が教えてくれる筈だ。

しかし、その大事な最初の一匹に、たどり着けず諦める人もいる。

僕等は、最初の一匹そこに拘りたい。

なぜならば最初の一匹は、まったく経験の無いところに突然やってくる。

予想できないから面白い。

数匹釣ったあとは、経験から釣り方やポイントをはじき出し、計算高い釣りになるはずだ。
例えば、今日の釣りはあのときのあれだという具合に。

どんなに難しい希少な魚だとしても最初の一匹っていうのは必ずやって来ると信じたいところだが、それを信じて針(疑似餌)を投げ続けた者にしか、悲しい事に、その興奮や感動のご褒美は無い。

誰も居ないフィールドで、誰も狙っていない魚を釣ることが好きな方、または自分の釣りに疑問を持つことが出来る方は、ただ単に釣る事以上の楽しみを持っている。

僕等は、なぜ釣るのか なぜ釣りを始めたのか なぜルアーなのか なぜフライなのか
なぜ鱒を求めたのか なぜシーバスなのか なぜバスを釣りたいのか それらを自問自答しながら進んで行く筈だ。

釣りに纏わる疑問の答えは、全て水の中であり、その答えの真髄を見付け出すことは不可能に近いのだ、「釣れてしまった」という偶然を重ねて、ぼんやりと把握するのが、せいぜい関の山だ。

そして僕はある時大きな疑問にぶち当たることになる。

「もうこれ以上釣らなくてもいいのではないか」と。

全ての疑問、その答えを埋めていったときに、とある寂しさにぶち当たることがある。

「趣味は釣りです。」と笑い飛ばしてみたい。

「大物が釣れました。」と死んだ魚の写真を撮って喜んでみたい。

「レアなルアーレアなカラーを手に入れました。」と喜んでみたい。

満足と不満足。まだなにも知らない。どこにも見つからない。

結論は、ルアーじゃなく カラーじゃなく 魚の大きさじゃなく 己の釣りへの関り方なのだ。

釣りに結果だけを求めることはナンセンスである。

本当に釣れるようになると本当に理解し合える仲間とそこに存在すべき魚が滅多に居ないことを知る。

今現在の僕がわかることはこれだけだ。

頭に描いた釣りたい魚を何時か手にすることに執着しそこに向かう。
そして結果は釣果として記録を刻むが、そこで終りもしない。

さて、あなたの釣りたい気持ちはどこまで続けられますか?
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by toyosikigijie | 2012-12-26 23:36 | 釣りの能書きと愚痴
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